
形而上の女(ひと)
彼女と海辺で夕日を見ていました。
僕はこれまで一度も夕日が綺麗だと思ったことはありません。
けれどあの頃の僕には、二人で夕日を見ることがとても大切な宝物のように思えたんです。
きっと彼女もそう感じていたんだと思います。
二人でしきりに綺麗だねなんて囁きあって、夕日の温かなオレンジにつつまれていました。
そしてその瞬間はいつまでも続くのだと信じていました。
ああ、麗しの人。
あの瞬間は時間軸に対して垂直に屹立し、遠く離れてしまった今でも、僕はたしかにはっきりと思い浮かべることができるんだ。
はにかんだほほえみ、少し眠たげなひとみ。君は小さなあくびをして、照れたように綺麗だねとつぶやいたんだ。
それから小石を小さくけとばして、その石ころのころころと転がってゆくリズムは僕の鼓動にリンクしていた。
夕日が沈む。オレンジの光が君の頬に灯り、東の空は群青色。
見事な色彩で、いつまでも僕の心に居座り続ける人。
でも、彼女にはもう二度と会えないんです。
いなくなってしまったから。
もう彼女はこの世界には存在しないんです。
まるで時の流れのように、気が付いたら、消え去ってしまっていたんです。
だから彼女は形而上の人となって、いつまでも僕の心から消えることがありません。
彼女に会いたい。
「はい次、右足」
本当に彼女はどこに行ってしまったんだろうってときどき不思議に思います。
「おい、もっと強く揉めよ」
この肉体のどこに幽閉されてしまったんでしょう。
「ちっ、マッサージさえろくにできんのかい。この役立たず!」
あの子はどうしてこうなってしまったの?
「あ?ろくすっぽ稼ぎもないくせに、えらそうな口たたくんじゃないよ、このアンケラソウ!」
ひいい。