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おひっこし
「おひっこしすることになったのよ」とママはいったの。
「だからゆうちゃんとももうすぐおわかれになっちゃうの」
ママはそのあと、ごめんねっていった。
だからわたし泣かなかったよ。
でもゆうちゃんに「さよなら」っていわなくちゃね。
さびしくなるね。ゆうちゃん。
―――――
この町を訪れるのは20年ぶりのことだ。
とはいえ、幼い頃に引っ越してしまったので、景色を見ていても思い出される風景は少ない。
母がいうには再開発で町自体だいぶ変わったそうだから、景色のほうが記憶と合致していないのかもしれない。
再びこの町を訪れてみる気になったのには理由があった。
引っ越してしまうとき、大切なことを言いそびれていたことに、ある日ふと気が付いたのだ。
そしていったん気づいてしまうと、そのことがとても気になって、いてもたってもいられなくなった。
バスは私が住んでいたらしい地域をのろのろと走っていく。
おぼろげな私の記憶の中では、確かこの町はちいさな団地ばかりだった気がするのだけど、窓の外を流れる景色は建設中の高層マンションが多かった。
なるほどこれが母のいっていた町の再開発なのか、と訪れてみて改めて納得した。
そして私は、依然何の感慨もないまま、ただぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
思えば、この町にいた頃の記憶自体曖昧だ。
特にこれといった出来事を覚えているわけでもなく、そして町の景色にいたってはほとんど何も思い出せない。
私はどんな家に住んでいたろうか。友達はどれくらいいただろうか。
何せ私は小学校に上がる前にはこの町を離れてしまっていた。
むしろ覚えていることなんてほとんどないのだ。
だけど、ゆうちゃんと最後に遊んだ日のことは、やけに鮮明に覚えている。
あの日の空模様。小さな公園。子どもたちのはしゃぎ声。
そしてゆうちゃんと私。
「ゆうちゃん、あのね」
「なぁになーに?」
「うんとね、うんとね」
「もぉ。なーにぃ?」
あの日、私はゆうちゃんにお別れをいうつもりでいた。
きちんと「さよなら」と伝えるつもりだったのだ。
「あのね、あのね」
「もぉ、なんだよぉ!」
だけど、どうしてもそのたった4文字の言葉を口に出すことができなかった。
「ううん」
「それよりさぁ、遊ぼうよ!」
「う、うん!」
「じゃあねえ…」
そしていつもと同じように遊び始めてしまった。
ゆうちゃんが鬼で、私が隠れて――
「もーいーかい」
「まーだだよ」
あとでいおう、あとで必ずいおう、そう思っていた。
「もーいーかい」
「まーだだよ」
バスは目的の停留所についた。
どうやらここが、私が住んでいた町らしい。
感慨は特にない。
知らない町にふらりと立ち寄ったようなものだ。
私は母が教えてくれた道順を頼りに、あの公園を探し始めた。
あの日、結局私は何も告げられないないまま、ゆうちゃんと別れてしまった。
ゆうちゃんの顔を見てしまうと、どうしてもさよならはいえなかった。
そしてそのまま、私はこの町を去ったのだった。
「さよなら」がいえなかったことは、ずっと私の心にしがみついていた。
今でもゆうちゃんが、私のことを探しているような気がしていた。
そして私は後悔とともに、そのゆうちゃんの幻影から逃れ続けてきた。
別れも告げずに消えてしまった、薄情者の親友として。
けれど、私はあるときふと気づいたのだ。
ゆうちゃんの幻影は、私を探してなんかいないということに。
私がいいそびれてしまったのは、「さよなら」だけじゃなかった。
そしてそれは、あの日の私たちにとって、さよならよりもずっと大切な言葉だったのだ。
私はその言葉を告げるために、はるばるやってきた。
ゆうちゃんと最後に遊んだ、この公園を求めて。
鮮明な記憶として覚えていたあの公園は、私の知らない町の中にポツリと現れた。
ただ、私がここにいた頃には多くの子どもたちでにぎわっていたはずなのに、今ではベンチに読書をしている青年が一人いるだけで、まるで役割を終えた公園が時間の川にぷかりと浮かんで寂しげに流されているみたいだった。
私はずっと、ゆうちゃんが私を探していると思っていた。
鬼ごっこの途中でいなくなった私を、いつまでもゆうちゃんが探しているんだと思っていた。
だけどそうじゃない。
ゆうちゃんが私を探しているはずがない。
だって私はまだいってないもの。
だからきっと、ゆうちゃんはずっとこの公園で待っていたのだ。
私が、探していいよ、の合図を出すのを。
私はゆうちゃんの幻影にむかってつぶやいた。
「もーいーよ」
あの日いいそびれた、大切な大切な言葉だった。
さよならよりも、ずっと大切な――
もうかくれたからね。
かならずみつけてね。ゆうちゃん。
―――――
「もーいーよ」
私がつぶやくと、近くのベンチに腰掛けていた青年がとても驚いた顔をして振り返った。
それもそのはずだ。
いい年をした女が突然意味の分からない独り言をつぶやき始めたのだ。
誰だってぎょっとするに決まっている。
しまった、といまさら自分のセンチメンタリズムが恥ずかしくなって、逃げ出したくなった。
私は真っ赤になりながら、その青年の顔をちらりとみた。
あ。
私と目が合うと、その青年はもっと驚いた顔をした。
そしてぽかんとした顔のまま、ゆっくりと立ち上がった。
子どもたちのはしゃぎ声が遠くに聞こえた気がした。
それはあの日とよく似た、温かな昼下がりだった。
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