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ありがとうのこぼれた街



「いつもトイレを清潔にご利用くださいましてありがとうございます」

彼はしばらくその貼り紙を信じられないといった面持ちで眺めていた。
こんなおかしな日本語を見たのは初めてだった。

彼はこれまで「ありがとう」という言葉が好きだった。
というのも、「ありがとう」とは人の好意と触れ合ったときにのみ発せられる言葉であり、そこには温かな響きが含まれていたからだ。

しかしこのコンビニのトイレの貼り紙に書かれた「ありがとう」は、彼が好きだったそれとはまったく別のものだった。
それは、好意に触れるより先に発せられるという新種の「ありがとう」だったのだ。
恐ろしいことだ、と彼は思った。

なんなのだ、この「ありがとう」は。
なんなのだ、この「ありがとう」が意味するものは。

コンビニから出てふらふらと通りに出ると、彼のわきをすごい勢いでバスが通り過ぎていった。
彼はそのバスを睨みつけるつもりで振り返った。
すると不意に、バスの後部に貼られたプレートの文字が目に飛び込んできた。

「車線変更にご協力くださりありがとうございます」

その後、彼は数々の「ありがとう」と出くわした。
「当館を静かにご利用くださってありがとうございます」
「整列してお待ちくださりありがとうございます」
「混雑時の席の譲り合いにご協力くださりありがとうございます」

いつからだろうか、街からは「お願いします」が消えていて、そして知らないうちにこの街は、人に好意を強要する<脅迫のありがとう>で満ちていた。


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