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いつものバスで



今朝もいつものバスに乗る。

一時間に一本しかないバスなので、これを乗り過ごすと完全に遅刻してしまう。
そんなわけで、毎日僕はこのバスに乗ることになっているのだ。

どうやら他の乗客も事情は同じらしく、ほとんど毎日同じ顔ぶれとこのバスで乗り合わせることになる。

もちろん僕ら乗客同士はお互い一度も口をきいたことがないし、当然のことながら面識もいっさいない。
いうまでもなく、僕らの関係は赤の他人以外のなにものでもない。

だけど、あまりにも毎日同じ面子で乗り合わせるものだから、なんだか僕らの間には不思議な集団意識のようなものが芽生えているような気がする。

例えば座る席が決まっているところなんて、学生時代のクラスの感じに似ている。
いつの間にか、僕らの間では暗黙のうちに各々の座る席位置が決まっていて、誰が取り決めたわけでもないのだけれど、僕らは毎日必ず同じ席に座ることになっているのだ。
毎日同じ時間・同じ場所に同じ顔ぶれが集まる。この感じ。
あとは運転手が「全員揃ったな」なんて言い出したら、そのままホームルームに突入しそうな雰囲気。

席の間隔は、バス全体のスペースから均等に割り振られていて、お互いが近づきすぎることも、遠ざかりすぎることもないような絶妙な間がとられている。
そしてたまイレギュラーな客が乗ってきたりすると、この均衡が崩れて、なんだかみんながぎこちない感じになったりするのだ。

なんか形容しがたい感じなのだけど、こんな不思議な秩序体系がおかしくて、僕は割りと気に入っている。



僕は毎日乗り合わせる4人のメンバーにあだ名をつけている。

とはいっても相手のことはほとんど知らないので、あだ名はその人の見た目かエピソードに由来している。

まず、最後部座席、つまり僕が座っている席の通路を挟んで反対側の席に座るのが、七三さん。
彼はいつも奇妙なほどに綺麗な七三分けの髪形をしているおじさんだ。

そして七三さんの席からいくつか前の席に座るのがチャックマン。
わざとなのか偶然なのかチャックが壊れているのかわからないけど、この人は三日に一度はチャックを全開にして乗り込んでくる。
彼が一日のうちどのタイミングでそのことに気づくのか、バスの中だけの関係である僕には知る由もないけど、とても気になるところだ。

チャックマンの席から通路を挟んで反対側の席、つまり僕の席からいくつか前の席に座るのが、マドンナだ。
マドンナなんてあだ名をつけたけど、彼女はそんなに派手な顔をしているわけではない。
むしろどちらかといえば地味で平凡な顔をしている。
だけど、彼女はいつもかわいいソックスを履いていて、僕はそこが気に入ったのだ。
だから彼女をマドンナなんて呼んでいる。
いうまでもなく、僕は彼女にほのかな恋心を抱いている。

そして最後の一人。バスの最前列に座っているのがゲロさん。
ゲロさんのあだ名の由来については深く語る必要はないだろう。


かくいう僕はいつも最後部座席の右端に座ることにしている。
そしてここからみんなの様子を観察するのが僕の日課となっている。

とても不思議な集団意識。他のどこにも見つからない、奇妙な親愛の念。

他のみんなも各々にあだ名をつけたりしてたらいいのに。そんなことを思うと思わず顔が緩んでしまう。



降りるバス停が近づいてきた。

僕は両替をするために、少し早めに席を立った。
そしてバスの前方にある両替機へと向かっていた。

すると、途中でフラリと世界が揺れた。

バスが揺れたんだろうと思っていたのだけど、どうやらそうではなくて、朝飲んだ安定剤が効きすぎていたらしい。
意識が一瞬遠のく。

チャックマンが驚いた声を上げたのが聞こえる。

なーに大したことないさ、と思いながら僕は無意識に彼とは反対側を見た。
そこにはマドンナがいる。

するとマドンナが心配そうに手を差し延べてくれるではないか。

窓から差し込む朝日が眩しい。
その光がマドンナを包んで、まるで天使の羽みたいだ。

僕の胸の中に、何かぽっと暖かな気持ちが膨らむ。
もしかして、彼女も少しは僕のことを…。そんな期待が湧いてくる。

薄らだ意識の中で、彼女が何かを語りかけてくるのが見える。

彼女は何かを言って、そしてはっとした顔をした。まるで「しまった」とでもいってるみたいな顔だ。

なんだろうか。

視覚がその様子を捉えてから一瞬遅れて、彼女の声が聴覚に届いた。



「大丈夫?鼻毛帽さん。」



彼女の表情の意味が分かった。

なんてことだ。

彼女は僕のことを「鼻毛帽」と呼んでいたのか。
いったい「鼻毛帽」とは何のことなのだ。
そんなことよりも、「鼻毛帽」なんてあだ名の男に、彼女が惚れているはずがないじゃないか。

一瞬でも期待した自分がバカみたいだ。
なんてことだ。

その後マドンナはしきりに大丈夫かと尋ねてきたが、僕は完全に上の空で返事する気にもならない。


すると動揺した僕の心を知ってか知らずか、最前列のゲロさんがご丁寧にわざわざ振り返って、鼻で笑いながらボソリとつぶやいた。

「地獄豆がこけた。」

だから何のことなんだ、それは。


バスが止まるやいなや、僕はいくら料金を払ったかもわからないままにバスから飛び出した。

そして喪失感に満ちた、落ち窪んだ気持ちでいつものバスを見送った。

すると後部座席に座る七三さんの後頭部が見えた。

外から彼の頭を見るのは初めてかもしれない。

僕はとっさに七三さんの新たなあだ名を思いつき、自分への慰めがてら、彼の新しいあだ名を声にだして呼んでみた。


「七三・ヅラ」


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