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僕らの友情



「やあ突然訪ねてすまなかったね。」

「いやいやとんでもない。」

「今、忙しくなかったかい?」

「ああ、うん。ちょうど暇だったもので。お気になさらずに。」

「そうかそうか。あ、この部屋、タバコは吸ってよかったよね。」

「ええ、うん、どうぞ。」

「そうか、では、ん?火・・・火・・・」

「あ、火ね。はいどうぞどうぞ。」

「あ、あ、どうもどうも。」

「はいはいはいはい。」

「ん・・・ん・・・・」

「・・・・・・あ、灰皿はこれを使って。」

「あ、どうも。なんだか済まないねえ、気を使わせちゃって。」

「いや、いいよ、そんな。」

「・・・・」

「・・・・」

「あ、そうだ。飯は食ったかい?」

「え、飯?まぁ・・・食べたちゃぁ食べたがね。」

「あ、そう。そうかぁ。」

「あぁ。あれだったらあんまり食べてないから一緒に食べに行ってもいいけど。」

「いや、いいんだよ。うんうん。」

「そ、そうかい?」

「うん。いいんだいいんだ。」

「・・・ああ、じゃあ出かけるのもあれだから出前でもとろうか?」

「・・・あ、いやぁ・・・あぁ済まないねえ。そうしてもらえると嬉しい。」

「うん。じゃ電話しようか。」

「あ、いいよ。電話は僕がするから。僕が言い出したことだし。」

「あ、そう。それはどうも。」

「僕はカツ丼にするつもりだけど、君はどうする?」

「あ、僕はキツネうどんで。」



彼が僕の家へ訪れた場合、会話はだいたいいつもこのように始まる。

今「このように」と言ったけど、これが文字通りこのように始まるのだから困ったものである。



まず、彼が挨拶の言葉を述べる。それに僕は適当な相槌を入れる。

次に彼は、僕が彼のために時間を割いてくれたといった類の形式的な謝辞を述べ、僕はそれに対する適当な否定と歓迎の意を示す。

その後喫煙者であり、日ごろ部屋でタバコを吹かしている僕に、部屋での喫煙の可不可を問い、食事のくだりへと移る。

その都度、使われる単語は異なってくるのだけれど、この一連の流れと言うものは毎度ほぼ変わることなく、もはや彼と僕との間でなされる一つのルーティンとでも言うべきものになっている。



僕はこれが堪えられない。



というのも、上で交わされた会話の中から、実を伴っていると感じることの出来る要素を少しでも見出すことが出来ないからである。

言い換えると、この会話は毎度欠かさず成されるべき価値のあるものだとは到底思えないということなのだ。

余計な気配り、必要のない気遣いばかりが表面を覆い、その表面を捲ってみると、中はぽっかりと空洞になっている。

僕ら親友は向かい合って会話しているようで、そこに静寂の音がこだまするばかり。

それこそがこの決まりきったやり取りの実態なのだ。



しかし信じられないことだが、どうやら彼はそれらを統べて「美徳である」と認識しているようなきらいがある。

そこで戒めの意を込めて、僕は今日こそ全てを省いて言ってやろうと思うのだ。

彼の挨拶の辞が始まらないうちに。より簡潔で、明確な切り口で。

「キツネうどんにしとくよ」と。



これによって、さすがの鈍感な彼も目から鱗を落とすに違いない。

これまで自分の「美徳」のためにどれほど無駄な、虚構の、偽善たる会話が繰り返されてきたのか。

それが無くなる事によって、どれほど円滑に物事が進んでいくのか。どれほど僕らの『友情』が、建設的で実りのあるものになるか。



先ほど彼から「お邪魔かも知れぬが、今からそちらを訪問しても良いだろうか」といった趣の連絡があった。

じきにやって来るはずである。



・・・・・・

『ピンポーン』

チャイムが鳴っている。

彼が来たようだ。

今日こそ、今日こそやってやるのだ。

今日こそあの無駄な、無益な、非生産的なくさぐさのことばに別れを告げよう。



ガチャリ



「キツネ・・・」

しかし僕がここまで言った時点で、思いがけず、彼のほうが先に口を開いていた。

そして彼はどこか思いつめたような顔をして、開口一番「やっぱりカツ丼は一味に限るなあ」と分けのわからないことを叫んだのであった。



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