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最近の若者



 最近、「最近の若い子は」と24歳の子がいっているのを聞いておったまげた。
 なんなら君の「世代」は今でも同じことを言われる権利がある気がするんだけどね。

 2大「最近の若者」として、「話しができない」と「本を読まない」が挙げられるだろう。
 ちなみに今僕が話題にしているのはそういった「言い回し」のことだ。
 僕は、若者が話ができなかろうが本を読まなかろうがちっともかまわないと思う。
 なぜなら僕らの世代も、僕の上の世代も、明治時代の人たちも、江戸時代の人たちも、みーんな「若者」のころに「大人」から同じようなことを言われていたからだ。

 つまり僕はこう思っている。
「若者への懸念」とは、老成ぶったやつらが面目を保つために作り出した一つの常套句に過ぎない。



「最近の若者は話しができない」

 この物言いについて僕は以前からとても疑問に思うことがあった。

「最近の若い奴はほんと、話が合わないよ」

 それはあんたの感性が鈍ってるからじゃないかな、と思う。
 これは嫌味ではない。素朴な疑問だ。
 なんで「話しができない」のが「若者」のせいなんだろうか。
 自分は歩み寄ろうとしないが、若者は話ができない。
 あるいは歩み寄ろうとしたのに拒否されてしまった、だから若者は話ができない。
「若者が悪い」という目隠しを取ってしまえば、つまりそういう意味が残る気がする。
 むしろ、それのどこが「大人」なんだろうか。


「最近の若者は本を読まない」

 僕はここ数年で少なくとも400冊は本を読んだ。
 が、本を読まないことをわるいことだと思ったことはない。
 本を読んだことをえらいとも思わない。
 それは、友だちがハードロックを聞かないことを悪く思わないのと同じ理由で、本を読まないことをわるいことだとは思わないのだ。


 本を読まないことを「わるい」と思うのは、それはあんたが読書を「辛い」ことだと思ってるからじゃないかと思う。
 にんじんを食べない子は叱られるが、ウニを食べない子は叱られない。それと同じ論理だ。
 恐らく読書をウニだと思っている人は、本を読まないことをわるいなんて感じない。
 あらお気の毒、とは思うかもしれないが、それで人を責めるという発想には繋がらないはずだ。
 しかし「本を読まない」と腹を立てている人の物言いは、明らかに読書をにんじんだと思っている人の物言いだ。
 自分が辛いと思っている、そのことを「若者」が避けようとするから腹を立てているのだ。

「宿題はしたの?」と母親に小言を言われて、いったいどんな子どもが喜んで宿題をするだろうか。
「最近の若者は本を読まない」という言葉には、それと同じ悪質な矛盾を感じる。
 いえばいうほど「若者」は本から逃げる。
 読書感想文から、子どもたちは逃げる。
「若者」たちは「なぜ本を読まないのか」という強いられた詰問によって、読書という至高の娯楽を奪われているのだ。

 じゃああんたは宿題したか。
 今、ここに大きな疑問符を掲げる。
 あんたは宿題やったのかい。


 大槻ケンヂがエッセイで書いていたが、筋肉少女帯が「元祖高木ブー伝説」というCD発売しようとしたとき、「高木ブー」の箇所があまりにもあれだということで(「何もできない」人の象徴として高木ブーが用いられているのだ)発売がお流れになりかけたのだという。
 その際、高木ブー本人がこういって、自体は丸く収まったのだそうだ−−

「若い奴らが頑張ってんだから」

 恐らく「大人の対応」っていうのはこういうことをいうんじゃないのかな。