
カモキに笑う
私は18歳の頃、大学受験のために浪人というやつをしていた。これはそのときに会った講師との出会いのお話。
私の通っていた予備校には、実に気になる講師がいた。
とは言え、別に彼が有名人だとか、かっこいい等という理由があって気になっていたのではない。
ただ、伸びるあご、そのしゃくれ具合、濃い目、などから総合的に見て、あまりにもあご・いさむさんにそっくりだったので、気になっていたのだ。
あ、うそうそ、アントニオ猪木そっくりだったの。
それで、入校間もなく彼を発見し、以来彼のことが気になって気になって仕方がなかったのであった。
私は高校卒業後、半年ほど引きこもりをやっていたから、入校したのが9月頃だった。
つまり周囲から半年遅ればせの入校だったわけだけど、この時期になると周りのものはさすがに慣れているらしく、猪木を見ても、別段「あ、猪木だよ」といったリアクションをしないのだ。
つまり、そこにアントニオ猪木がいるのにも関わらず、回りはノーリアクションなのだ。
分かるだろうか。猪木と猪木に無関心な若者たちに囲まれる不安。
そんなわけで、私はある意味では、当時もっともその講師猪木を意識していた一人だった思われる。
やはり人気者なのか、講義は熱血なのか、合格祈願にはやはり『張り手』をかましてくれるのか、など関心は募り、いつか彼の講義を受けてみたいものだと思っておった。
時は移り、入試直前の時期にさしかかっていた。
古典の講義を受けるべく教室に入った私は、ややっ、と驚いた。
その教室は予備校内でも最も小さい所で、しかも生徒が疎らにしか入っておらんのだ。
私も含めて10人もおらんかったのではなかろうか。
なんて人気のない講師なのだ。と呆れつつ、また気の毒にも感じながらその張本人を待つに、ガラガラと扉を開け現れたのが、なんとその猪木だったのだ。
開口一番猪木がおなじみの台詞をはく。
「え〜皆さんこんにちは」
きたぞ!!『元気があればー!!』のくだりだ!
さあ猪木!!こい猪木!!猪木ボンバイエ!猪木ボンバイエ!
心の中では猪木コールが鳴り響く。
さあ!猪木がもう一度口を開く!
くるぞくるぞ、と待ちわびるに、猪木は意外なことながら「じゃあさっそく32ページを開いてください」とそつなく講義を始めてしまったのであった。
なんてことだ。キャラを全く生かしきれてないじゃないか猪木!
驚いたことに、予備校の猪木は、顔が猪木なだけで、熱血漢でも人気者でもなかったのだ。
いや、それどころではない。猪木は酷く寡黙なのだ。余計なおしゃべりなどはほとんどしない。
猪木でしかも寡黙なものだから、これはまさしく「カモキ」なのだ。
カモキは寡黙であり、しかもニヒルににやりと笑う人物だった。あまりにも湿度が高い。
どおりで人気がないわけだ。
講義の間は、本当に退屈極まりない時間がゆっくりゆっくりと進む。
確かこの講義は集中講義で、一日で5コマ連続してやるといった地獄のスケジュールだったと記憶している。
最初は10人程度はいたであろう生徒は、コマを追うごとに人数を減らし、いよいよその半数が帰宅するという非常事態が巻き起こっていた。
カモキは生徒がいくら少なかろうが、かまわぬ素振りで講義を続ける。
恐らくいつものことで、慣れているのだろう。
どうやら講義では助動詞の解説を始めておるようだが、もはや私もこの退屈さに限界。このコマ終わったらフケろうかなあ、などと若者らしいことを考えていた。
と、まさにその時。カモキがおもむろに語り始めたのだった。
「私は友達が非常に少ないのですが・・・」
突然の言葉に耳を奪われる生徒たち。
黒板にはためらいの助動詞「まし」と記してある。
「たった一人だけ親友と呼べる友人がおりましてねえ・・・いやおったといいましょうか・・・」
カモキ、相も変わらずニヒルな笑顔で続ける。
「ある日ですねえ。彼がビルの屋上で浮かない顔をしておるのですよ。」
固唾を飲んで見守る受講者達。
「どうしたのかと尋ねれば、どうやらここから飛び降りようか躊躇しとる、と言うんですねえ。」
唖然とする一同。
「つまりこの彼の状態がためらいの助動詞『まし』なんですねえ。」
カモキ生徒を一瞥し続ける。
「で、私はこの親友の気持ちを踏んでですねえ。どーんと背中を押してやったわけですよ。つまり彼の『まし』を断ち切り『べし』にしてやったと」
と、言い終えるや、カモキはクックックと笑った。
静まり返る教室。室内に異様な空気が漂う。
ただでさえ陰険な面持ちのカモキ。これはジョークか、いやカモキならやりかねない。
どうしよう、どうしよう。
リアクションさえ許されない、緊張感漂う室内。
しかしその中に、ぶぶっと吹き出してまで笑う阿呆が一人おった。
私だ。
教師講師と呼ばれる人たちの笑いを取るパターンとはいくつかあって、例えば「うひょひょうひょひょ、バッカでーす」とハイテンションで攻めてくるタイプ、「まさこさま、下から読んでもまさこさま」と知的に来るタイプ、「やっぱ香水はシャネルよねー」と生徒に取入ってくるタイプなんぞが挙げられるが、いずれも私の胸を打つことはなかった。
それに引き換えカモキはどうか。
たまに余計な口を開けば、友人殺害といった趣のジョーク。
こいつぁ他に類を見ない、ブラックジョークの真骨頂ではないか。
と突っ込んでおきながら、これが正しく私の笑いのつぼであって、偉く受けてしまったのであった。
てんで、カモキのクックックに合わせてぶぶっぶぶっとやっておったら、どうやら私、カモキから非常に気に入られてしまったようであって、以後カモキはこの手のジョークを呟く度に私を見つめ、クックックと微笑むようになったのである。
部屋とワイシャツとカモキ、である。
あなおそろしや。
今にして思うのは、恐らくカモキは私に同じ臭いを感じたのではないか。
あの時の教室の空気からして、あるいはカモキの「うけなくても気にしません」といった態度からして、日ごろから生徒の笑いを取れていなかっただろう。
そこへ来て、逐一ぶぶっと噴出してくれる阿呆がおれば、そりゃあ誰だってそいつに好感がもつというもの。
同じソウルを感じていたとしてもおかしくはない。
私も私とて同じくそのソウルをカモキに感じたカンがある。
異端児という名の共鳴である。
「引きこもり」という非生産、無益の時を過ごした私の虚無感(ニヒリズム)が彼のニヒルなジョークと共鳴していたのだとも考えられる。
同士だ。カモキは同士だったのだ。カモキは同士だったのだよ。
なんぞと綺麗なことを言っておるが、しかしカモキがクックックとやる度に私もぶぶっとやるものだから、当然教室におわす他の方々からは「あーあの人もそういった風な、ね」といった風に思われるわけで、それはさすがにたまらないなあと感じるのは素直な意見である。
そのため、そのコマ終了後、私はそそくさと教室を後にし、以後カモキと見かけることは二度となかったのであった。
つまり私とカモキとの友情もまたニヒル(虚無)だったのである。